第二十二番 総持寺

35回参拝
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亀に乗った観音様として有名な総持寺は平安時代、中納言藤原山蔭卿により開かれました。亀の恩返しにより開かれた総持寺の御話は、今昔物語や源平盛衰記等にも紹介されていますが、総持寺には、お寺の創建についての縁起絵巻が残されています。
山蔭卿の父である高房卿が太宰府に赴任の途中、淀川を船で下っていますと、漁師達が一匹の大亀を捕らえていました。高房卿は、「今日は十八日で観音様の縁日です。どうかその亀を私に譲ってください。」と自分の着物と交換し、大亀を河に放してやりました。
総持寺
その夜、河口で夜を明かした高房卿は、継母のたくらみにより最愛の子である山蔭を河に落とされます。嘆き悲しんだ高房卿は「観音様、今一度我が子山蔭に、亡骸としてでも会わせて下さい。」と、常日頃より信仰している観音様に祈念されました。すると昨日助けた大亀が元気な山蔭を背に乗せて現れたのです。
観音様の御恩に感謝した高房卿は観音様の造像を発願します。
高房卿より中国での香木購入を依頼された遣唐使は、買い求めた香木の持ち出しを禁止され、香木に銘を書いて海に流しました。
その後、高房卿は亡くなり山蔭卿が太宰府に赴任しました。
ある日浜辺で、中国より流れ着いた香木を発見。驚きと歓喜に包まれ、父高房卿の遺志継続を決心するのです。
任期を終え都に帰った山蔭卿は、仏師を探すため奈良の長谷寺に籠もり祈願を重ねました。
ある朝、観音様のお告げにより童子の姿をした仏師に巡り会いました。山蔭卿は都の屋敷に来るよう童子に告げて、長谷寺を後にしました。
山蔭卿の屋敷を尋ねた童子は、いぶかる家来達の前で、見事な十一面観音を刻み一同を驚嘆させました。
その後、彼の香木を与えられた童子は「仏様を彫刻する千日の間は誰もこの仏舎に入らぬ事。また、山蔭卿自身で私の食事を作ること」と申しました。
造仏を初めてより千日目の早朝、「長谷の観音様はどちらに」と声が聞こえると仏舎より「行基菩薩よ、今帰るところよ」との答えがあり童子は空に飛び立ちました。
山蔭卿が急いで仏舎に駆けつけると、千日間の食事を御供えされた千手観音様が亀の座に立った御姿で、お奉りされていました。
山蔭卿の三回忌には七男七女が協力し、五重塔、多宝塔、金堂、講堂、食堂、鐘楼、僧坊、宝蔵、浴室、四面回廊、大門、脇門等、総持寺の伽藍が完成しました。
総持寺伽藍の落慶法要は寛平二年二月四日と伝えられ、それ以来千百有余年を経て、信仰が伝えられています。

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大阪茨木市の総持寺。阪急総持寺駅から歩いて5分くらい。

手水
総持寺

総持寺

総持寺

総持寺

大師堂
総持寺

2012.5.20行って来ました。

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「第二十二番 総持寺」への2件のフィードバック

  1. 昨日總持寺にお参りすることができました。3年ぶりです。
    なんか人が多いなぁと思ったらご本尊がご開帳されていました!(21日まで)
    足が炭になっても真っ黒になっても立って手を合わしておられるお姿に感動しました。とてもありがたかったです。

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