三井寺の僧、行尊は百人一首の中に「もろともに哀れと思え山桜 花よりほかに知る人もなし」の歌が採られている人物である。その行尊が長谷寺を第一番とし、御室戸寺を第三十三番として巡拝し『観音霊場三十三所巡礼記』を記している。これが西国三十三所巡礼の始まりである。
その後、同じく三井寺の僧、覚忠が記した『寺門高僧記』には「応保元(一一六一)年正月、三十三所巡礼す。すなわちこれを記す」と明記した上で「一番、紀伊国那智山、本尊如意輪、願主羅形上人……三十三番、山城国御室寺、三井寺末寺に終わる」という巡礼記を残している。これら行尊・覚忠のいずれの場合も、順路は現在と異なっているが、巡拝する寺院は現在と全く同じとなっている。
その覚忠が記した巡礼記によれば七十五日、行尊にいたっては日数百二十日とある。当然のことだが、このように長期の修験的な巡礼に一般庶民が参加するのは困難だった。十四世紀末に書かれた『太平記』の一節に、山伏姿にやつした護良親王の一行が「われわれは三重の滝に七日間打たれ、那智に千日籠って、三十三所巡礼のため参上した山伏だ」といって里人たちを信用させる話があるが、その頃になっても三十三所巡礼といえば、山伏など修験者が行う難行苦行の典型と考えられていた。
ところが、こうした三十三所巡礼の性格は、室町時代の十五世紀中ごろになって大きく変化する。京都五山の僧慧鳳の『竹居清事』は、永亨のころ(一四二九~四〇)になって、巡礼の人々が道にあいつぐようになったと記し、また寿桂の『幻雲稿』には「武士や庶民で仏に帰依するものは、一度でも三十三所巡礼を行わなければ、一生の恥としている」とある。これら五山の僧の記述から、いままでの修験山伏中心の三十三所巡礼が変化して、地侍・農民・新興の商人層など、観音の利益を求める人々の巡礼参加が始まる。それにつれて、従来の巡礼の修験的性格は変化し、多数を占めるようになった東国出身者に便利なように、順路も覚忠が具現した順路にならうようになった。
東国から海路でまずお伊勢参りをし、次いで熊野三山に参拝し、その後に西国三十三所を巡るルートが確立する。現在と同じように第一番を那智山青岸渡寺とし、最後を美濃の谷汲寺とする順路が一般的になり、満願ののち、信濃の善光寺にお礼参りをすると云う風習も成立した。
西国三十三所巡礼の始まり
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