第十五番 新那智山 観音寺(今熊野観音寺)

28回参拝
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今熊野観音寺ホームページ

弘法大師空海が唐の国から帰国されてほどなくの頃、東寺において真言密教の秘法を修法されていたとき、東山の山中に光明がさし瑞雲棚引いているのを見られました。不思議に思われてその方へ慕い行かれると、その山中に白髪の一老翁が姿を現わされ、「この山に一寸八分の観世音がましますが、これは天照大神の御作で、衆生済度のためにこの地に来現されたのである。ここに一宇を構えて観世音をまつり、末世の衆生を利益し救済されよ。」と語りかけられ、またそのときに一寸八分の十一面観世音菩薩像と、一夥の宝印を大師に与えられました。この時に老翁が立ち去ろうとされたので何びとかをたずねると、「自分は熊野の権現で、永くこの地の守護神になるであろう。」と告げられて姿を消されました。
大師は熊野権現のお告げのままに一堂を建立され、みずから一尺八寸の十一面観世音菩薩像を刻まれ、授かった一寸八分の像を体内仏として納め、奉安された。
平安末期の永暦元年(1160)には、後白河上皇(1127-1192)がこの地に熊野権現を勧請され、ご本尊をその本地仏として定められ、「新那智山」の山号を賜り、山麓に新熊野神社を造営されました。
古くから紀州熊野の地は、南方にあるという観音の補陀落浄土としての信仰の中心であり、歴代の上皇・法皇はたびたび熊野御幸を重ねられ、後白河上皇も御幸されること二十七度に及びました。しかし、都より遠く隔たった熊野の地への御幸は容易ではなく、また後白河上皇のころには世情も不安定であり、御幸を断念せざるを得なかったのでありましょう。そのためにも、古くから熊野権現出現の伝説地でもある今熊野の地を紀州熊野の観音霊場になぞらえて、社殿を山麓に造営され、また神社と寺を結ぶために、観音寺大路(現在の泉涌寺道とほぼ同じ)を通されました。そして熊野御幸のための御潔斎場としての御精進屋を観音堂ちかくの浄地に設けられ、ご精進中またはご参籠に際してはこの観音寺大路を往還されたのであります。遠隔の熊野の地への御幸も、国に大事があっては叶わず、しかしそのような時こそ、今熊野の地へ籠もられて、源平争乱の世に処して国のなりゆく様を案じられ、神仏に祈りをこめられたのでありましょう。後白河上皇は、嘉応元年(1169)に御出家あらせられました。
また、後白河上皇は御持病の頭痛を当山の観音さまの御夢告によって平癒されたので、爾来世の人々からも頭痛封じの観音様として尊崇されるようになりました。
「枕草子」の作者として知られる清少納言(生没年未詳)は、その父清原元輔の邸宅が現在の観音寺境内地付近に有ったことから、観音寺の近くにおいて生まれ育てられました。清少納言は一条天皇の皇后定子に仕えて寵遇を受けました。定子皇后が崩御されると皇后を葬る鳥戸野陵が観音寺近くに造営されましたが、それにともなって清少納言も、自分が生まれ育った観音寺近くの父の邸宅のほとりに住まいて、寵愛を受けた定子皇后の御陵に詣でつつ晩年を過ごしたものと思われます。

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JR京都駅から歩いて30分くらい。東福寺駅からの方が近い。

今熊野観音寺

今熊野観音寺

今熊野観音寺

2012.10.21追加

2016.2.10追加
今熊野観音寺

今熊野観音寺、大師堂

2016.11.9追加
今熊野観音寺

今熊野観音寺

今熊野観音寺

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