11月1日から30日。
これは参拝したいですね。。
カテゴリー: 西国三十三所巡礼の旅
御山を二つ越えてなんと有り難いことか!
昨日は滋賀県まで行って来ました。長命寺から観音正寺まで歩いて中山道を少しだけ歩きました。
歩き時間が掛かる予定でいますので新幹線で行く事とした。朝一の新幹線に乗り遅れる(笑)
岡山6時20発に乗れた。京都からは普通で近江八幡まで、長命寺までバスで移動。490円です。
さぁ御山の下からあがりますよ〜808段の階段。この前は11分掛かったが、、(笑)
今回は、、あまりきばらんとこ!ゆっくりあがる。しかし、調子にのって。。
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西国三十三度行者
京都市のHPによれば
江戸時代初期から昭和30年代前半まで,この西国三十三所を廻った民間の廻国修行者の存在が確認できる。行者は,サンドサン,オセタハン,セタブッサンなどと呼ばれ,各々オセタ(御背板,もしくは御背駄)と呼ばれる笈を背負って廻国をした。オセタはセタ元,あるいは本山などといわれる寺院が管理しており,京都では廻国修行を志す者は,こうした寺院に願い出てオセタを借り出し,西国三十三所を三十三回廻ることで満願となった。
現時点で確認できている本山は6箇所で,京都では東山区の称名寺が,大仏組の本山として,かつては5基のオセタを有し,常時5人の廻組修行者を抱えていた。
オセタは,木製の本体とその上に載せる行李とに分かれ,本体には熊野権現本地仏や西国三十三所の本尊を納めた厨子の他,仏具,位牌などを,行李には幡や打敷などの布製品や宿帳などを納めた。法会の際には階段状の祭壇となるような拵えである。
行者は,廻国修行の際,巡礼道沿いに分布する信者のもとに立ち寄り,そこでオセタを開帳し法会を執り行った。各オセタには信者の住所を記した宿帳がついており,行者が変わる際には,後継の行者はオセタと共に檀那場も継承する慣行となっていた。
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橋立や遥かに遠い日本海
七日は姫路の書写山から日本海に向けて歩く初日の日です。書写山圓教寺から成相寺へのルートです。120kmあり順調に歩けば4日掛かります。
この前、置塩坂を降りて来て切ったので書写吹から出立の予定が、、姫路駅でバスが無い。仕方が無いので県立大行きに乗り横関で降りました。
8時25分、ロープウェイ方向に歩いて行き夢前川の西側を行けるかなと思っていたのですが行き止まり。(笑)
Uターンすることに、、早速、歩数を稼ぐ事に。(笑)
夢前川の橋の上から
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歩るきたい(^.^)
歩かないといけない!
体がそれを要求している。
昔の巡礼記を調べていると三井寺の覚忠が歩いた巡礼記が史実に一番古いようだ。で、巡礼ルートを見てみるとピピっと来るものがあった(^.^)粉河寺から桧原越えしないで壺阪寺に向かう。そこから南円堂まで行き、施福寺にいく。次に葛井寺に行き、総持寺に抜ける。勝尾寺から宝厳寺、谷汲に行き、観音正寺、長命寺、三井寺、石山寺、岩間寺、醍醐寺にいく。この辺りは逆うちだ。今熊野に行き六波羅、清水寺、六角堂、行願寺、善峯寺、穴太寺、最後に三室戸寺で打ち止め!!覚忠は75日掛かったそうだ。現代において覚忠の巡礼ルートを実行した人はまずいないだろう。だからやる価値はある。いややらねばならぬ!そのためには大辺路ルートも通らないと行けない。粉河から壺阪に抜ける道も開拓しないといけない。車では通ったことがある。それと穴太寺から帰って来る道もどこを通るか?今では山陰道は危なくて通れない(-。-;清滝に抜けるルートは知っている。学生時代、亀岡に住んでいたのである程度は解っている。
やってみたいね〜覚忠ルート(^.^)